2008年02月02日
artist
久しぶりに家内が電話してきた。
電話は緊急時、普段は淡白なメールという暗黙の了解があるので、ちょっとドキッとしてしまった。
長男坊の版画が県で「推賞(この字をあてるのが正解かどうか?だが)」を頂いたそうだ。
今まさに「快進撃中」である。
日頃から「目の付け所がちょっと違う」と感じてはいたが、やはりその才能を認めずにはいられない。
というのは、いささか「親ばか」だろうか。
冷静に大人の目から見ると「写実的」過ぎる感は否めない彼の絵。
しかし、見たものを忠実に再現できる「デッサン力」はとても大事だとワシはつくづく思うのだ。
「想像力に画力がついていかない」
こればっかりは悲しい。
基礎力は非常に大事なファクターなのだということを、これからも根気強く教えていかなければいけない。
「ゆっくり、ていねいに、よくみて」
情報を収集するアンテナを育ててやりたい。
子供の素質を生かすも殺すも、ワシら両親。
ワシらも本気で推奨して行けば、子供の能力はぐんぐん伸びるだろう。
これはどんな分野でも同じことだろう。
「目の付け所がちょっと違う」
長いものに巻かれない人づくりは、こんな所から始まるのだろう。
昨夜に続いて「いとう せいこう」
この人も「目の付け所がちょっと違う」
この出張に持ってきた本は5冊。
その内3冊が「いとう せいこう」氏の著書だった。
偶然であるが、必然なのだろう。
今読みたい本を持ってきた結果がこうだった。
「セケン・ムナサンヨー」(ISBN4-04-872732-X)
ご存知の通り、300年ほど前に出版された「井原西鶴」の「世間胸算用」である。
いとう氏のこれは、「逆輸入翻訳」と言われる手法。
「西鶴」の「世間胸算用」の英語版「This Scheming World」をわざわざ日本語に翻訳して世に出してしまった。
翻訳といっても「直訳」でである。
氏の前書きにはこうある。
「古典を読むとき、我々は”日本というイメージ”をレンズにして、その世界を理解したようなつもりでいる。そこに出てくる物や風俗を、本当はガイジンとして想像してみる以外ないくせに。そして、いつも想像は失敗するのだ」
つまり「西鶴」は「我々」にとって”時間的”なガイジンなのだと。
逆に、「我々」は「西鶴」のガイジンだと。
面白い思考である。
主語がなくても良い「ワシらの国の文学」が、主語がなくてはならない国の言葉に訳されると、それだけでテキストにねじれが生じる。
文法の違いが新たな言葉を生み出している。
皮肉な話だが、新しい発見。
電話は緊急時、普段は淡白なメールという暗黙の了解があるので、ちょっとドキッとしてしまった。
長男坊の版画が県で「推賞(この字をあてるのが正解かどうか?だが)」を頂いたそうだ。
今まさに「快進撃中」である。
日頃から「目の付け所がちょっと違う」と感じてはいたが、やはりその才能を認めずにはいられない。
というのは、いささか「親ばか」だろうか。
冷静に大人の目から見ると「写実的」過ぎる感は否めない彼の絵。
しかし、見たものを忠実に再現できる「デッサン力」はとても大事だとワシはつくづく思うのだ。
「想像力に画力がついていかない」
こればっかりは悲しい。
基礎力は非常に大事なファクターなのだということを、これからも根気強く教えていかなければいけない。
「ゆっくり、ていねいに、よくみて」
情報を収集するアンテナを育ててやりたい。
子供の素質を生かすも殺すも、ワシら両親。
ワシらも本気で推奨して行けば、子供の能力はぐんぐん伸びるだろう。
これはどんな分野でも同じことだろう。
「目の付け所がちょっと違う」
長いものに巻かれない人づくりは、こんな所から始まるのだろう。
昨夜に続いて「いとう せいこう」
この人も「目の付け所がちょっと違う」
この出張に持ってきた本は5冊。
その内3冊が「いとう せいこう」氏の著書だった。
偶然であるが、必然なのだろう。
今読みたい本を持ってきた結果がこうだった。
「セケン・ムナサンヨー」(ISBN4-04-872732-X)
ご存知の通り、300年ほど前に出版された「井原西鶴」の「世間胸算用」である。
いとう氏のこれは、「逆輸入翻訳」と言われる手法。
「西鶴」の「世間胸算用」の英語版「This Scheming World」をわざわざ日本語に翻訳して世に出してしまった。
翻訳といっても「直訳」でである。
氏の前書きにはこうある。
「古典を読むとき、我々は”日本というイメージ”をレンズにして、その世界を理解したようなつもりでいる。そこに出てくる物や風俗を、本当はガイジンとして想像してみる以外ないくせに。そして、いつも想像は失敗するのだ」
つまり「西鶴」は「我々」にとって”時間的”なガイジンなのだと。
逆に、「我々」は「西鶴」のガイジンだと。
面白い思考である。
主語がなくても良い「ワシらの国の文学」が、主語がなくてはならない国の言葉に訳されると、それだけでテキストにねじれが生じる。
文法の違いが新たな言葉を生み出している。
皮肉な話だが、新しい発見。
Posted by kane_944 at 02:40│Comments(0)
│ショモツ